“天才”の話
久しぶりに書く。
あんスタのストーリーにおいて、ずーっと引っ掛かってる部分があるので、備忘録としてまとめます。
さっそくいくぞ。
(ズ!!イベント『ネクストドア』「Open World/4」より)
なんですかこれは……?
という気分である。ちなみに当方、ゲーム始めてすぐ奇人好きになって、それ以降ずっと推してる。
奇人・日々樹渉のステージなど、英智による五奇人の“討伐”は、確かに、悲劇に見える。
しかし討伐された当人の供述(?)はこう。
(ズ!メインスト『SS』「努力/14~16」より)
(ズ!イベスト『エレメント』「灰は空に帰す/9」より)
わりと満足してるんですよ。
そして、
(ズ!イベスト『エレメント』「灰は空に帰す/9」より)
ともある。
つまり渉たちは、“怪物”にならないために、殺される道を選んだ。
同時に、『奇人』の幸せは、無数の他者を踏みにじることで成立する事も分かる。
…………え?
夏目くん、『奇人』の歴史的再定義、大丈夫??????
というか何でそこに司??????
という思いが拭えないんですよ。
夏目曰く、
まじか。
英智が悪用した『五奇人』像を修正するって。夏目くんそれ歴史遡行軍*1じゃん……。
*1:とうらぶの話です
しかも
溜飲を下げるためだけ……。
渉最推しの私としては、地獄の責め苦のような舞台を味わってまで倒されることを選んだ渉や、零の犠牲が無駄にならないか、という懸念がある。
こんな文章がある。
一人のシェークスピアが栄えた背後に、幾人の群小戯曲家が、無価値な、滅ぶるにきまっている戯曲を、書き続けたことだろう。一人のゲーテが、ドイツ全土の賞賛に浸っている脚下に、幾人の無名詩人が、平凡な詩作に耽ふけったことだろう。無名に終った芸術家は、作曲家にもあっただろう。俳優にも無数にあっただろう。一人の天才が選ばれるためには、多くの無名の芸術家が、その足下に埋草となっているのだ。
(出典:https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/492_19843.html)
渉が言うところの、“天才たちの交歓”は、上の文章にあるように、多くの屍の上に成り立つ。
英智が『五奇人』という概念をどのように悪用したかは書かれていないが、
「己の才の無さにうなだれる諸君、見るがいい。あの『五奇人』たちを! 奴らは、諸君らの屍の上に立ち、ときには諸君らの屍を糧とする、おぞましい怪物なのである。我々はこれからあれを討ち取り、諸君らが再び光の下へ繰り出せる世界を作るのだ!」
なんて感じに誘導すれば、“夢見がちな” “『奇人』の下でくすぶっている” 夢ノ咲の生徒たちを味方にすることは、容易いのではないだろうか。
そして採点システムなどの武器を用いて、怪物を討伐して見せたのだろう。(と解釈している)
そういう視点で考えると、抜群な才能の持ち主が5人もいる状況なんて、夢ノ咲の生徒――アイドルを目指す若者たち――にとってはストレスでしかない。絶対に越えられない壁が延々と伸びているようなものなのだから。
(ところで、英智のうまいところは、こうした誘導をすることで、「俺には才能なんてないし」という逃げ道を絶つことに同時に成功しているところだ。)
そして、自ら身を引いた『奇人』たち……少なくとも渉と零は、このくらいの事は見抜いていたでしょう。
だからこそ渉はあの場で台本通りに殺された。(と解釈している)
それなのに。
そうやって『奇人』が犠牲になることで、天才の下に埋もれる屍体を減らそうとしてきたのに!
なんで『奇人』の復権を図るのさ!?
それも私怨で!
正直、これを夏目くんがやっていたことがショック。エレメントの封筒の件があるので、分からなくもないんですが、どうして渉が殺されに行ったのかをもう少し考えてほしかった……。
今後、どのような展開になるかは分かりませんが、『天才』および『奇人』の復権を図るのであれば、その陰に隠れて死んでいく人間がまた増える可能性があるということを、考えていきたい。